2025.06.12
今日も朝食あるかなぁとキッチンに行ってみたら、準備中だった。
昨日とは別のスタッフに
「朝食は9時からだよ。」
と言われれた。
昨日がたまたま早めに準備されただけだったらしい。
今日も朝からツアーなので朝食なしで宿を出る。
朝の平和橋は誰もいない。
貸切状態。
飲食店が立ち並ぶ道も朝は静か。
集合場所は昨日と同じ。
また一から車を探すパターン。
昨日はすんなり見つかったけど、今日はなかなか見つからない。
色んな人に声をかけまくって、ようやく顔の広い人を見つけ、車を教えて貰った。
朝から疲れる。
本日の車はこちら。
昨日とほぼ同じ。
ナンバーが違うだけね。
置いていかれては困るので、さっさと乗り込み出発を待つ。
9:00
時間通りに出発。
昨日のツアーは英語のみだったが、今日はロシア語圏の客も1組いるため、英語とロシア語の両方でガイドさんが説明している。
ドライバーさんとはジョージア語。
ガイドさん、凄いなぁ。
出発から約1時間後、最初の目的地に到着。
ジワリ修道院
崖の上に佇む正教会の修道院。
ジワリはジョージア語で“十字架”の意味。
上から見たら十字架の形らしい。
キリスト教を国教として受け入れたミリアン3世がこの地に十字架を建てたらしく、ジョージア人にとって神聖な場所とのこと。
590 年に造られたもので、ファサードに浅浮き彫りの彫刻が施されている。
朝から観光客が沢山。
中へ入る。
中には木製の大きな十字架があった。
うん、これだけ。
他に見るものがないので、外へ。
眼下にはムツヘタの街。
二つの川が交わる所。
真っ直ぐ伸びる軍用道路。
引きで見るジワリ修道院。
朝から暑いので、サクサク次の目的地を目指します。
11:30
ゴリに到着。
ゴリはジョージア西部の街。
人口が5番目に多い都市らしい。
何度か軍隊に侵略された歴史を持っていて、2008年の南オセチア紛争では、ロシア空軍に占領された。
そんなゴリの街は、旧ソビエト連邦の指導者、ヨシフ・スターリンの出生地。
ずっとロシアの人だと思ってたけど、ジョージア生まれだったらしい。
そんなゴリの街の中心街には、以前、スターリン像があったが、2010年6月25日未明に撤去された。
撤去は人目につかないよう隠密に行われ、マスコミによる取材も警察に阻止されたらしい。
旅行者がゴリに来る目的はスターリン博物館。
街のど真ん中にある。
スターリン博物館
入り口すぐの所には、スターリンがモスクワからヤルタ会談に出席する際に乗車した列車。
スターリンは飛行機が嫌いだったらしい。
ヤルタ会談とは、1945年2月に第二次世界大戦の連合国(アメリカ大統領ルーズベルト・イギリス首相チャーチル・ソ連首相スターリン)がクリミア半島のヤルタで行ったもの。
ドイツの戦後処理や国際連合の設立などが話し合われ、ヤルタ協定が結ばれた。
ソ連の対日参戦や千島列島と南樺太の領有に関する秘密協定も含まれていた。
列車の中にも入れる。
早く行ってーって感じだったので、全然写真は撮らなかったけど、中は意外と質素な感じだった。
スターリンの部屋もあったが、至ってシンプルだった。
ここにスターリンもいたのかぁって感じ。
こちらが博物館の入り口。
入り口を入ってすぐ階段の上にスターリンの像。
まずは入り口左手側にある、チケット売り場でチケットを買う。
15ラリ(¥820) ガイド付き
ガイドは英語、ロシア語、ジョージア語。
全員チケットを買ったところで、ツアースタート。
まずは階段を登り、踊り場のスターリンさん、こんにちは。
等身大のスターリン像。
163cm
私より小さい。
本人も気にしていたのか、シークレットブーツを履いていたそうな。
若き日のスターリンの像。
若き日のスターリンの肖像画。
オダギリジョーにしか見えません。
スターリンのおっさんバージョン。
こちらは岡田真澄にしか見えません。
そんな事しか考えられないくらい、ワタクシは秒で飽きてしまった。。。
歴史好きな旦那ちゃんはちゃんとツアーの輪に入ってましたよ。
高校で世界史を選択していたけど、スターリンに興味がなさ過ぎて、下調べゼロで来ちゃったのが行けませんねぇ。
ここはある程度予習が必要だったわと少しだけ反省。
ブログを書くに当たって、後から色々調べました。遅っ!!!!
スターリンさんについて一緒に学びたい方はこちらをどうぞ。
1878年12月18日にロシア帝国統治下にあったジョージアに生まれたヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ( იოსებ ბესარიონის ჯუღაშვილი) これがスターリンの本名。
スターリンって言うのは“鋼鉄の人”って言う筆名らしい。
確かに、ジュガシヴィリだったら覚えられなそう。
後にソ連の最高指導者になる人の誕生です。
彼の家庭は裕福ではなかったが、成績が良かったので、母親は彼が司祭になることを望み、スターリンは神学校に通った。
しかしながら、カール・マルクスの『資本論』の影響を受けて無神論者となり、マルクス主義(社会主義思想)者になっていく。
1899年、マルクス主義の影響を受けまくって、神学校を去って革命家へ。
1917年の十月革命でレーニンのロシア共産党による独裁国家が成立すると、その行政府である人民委員会議の有力者となった。
1922年4月に党書記長に就任し、同年12月のソビエト連邦の建国にも深く関与。
1924年1月のレーニン没後、後継者争いをしていたレフ・トロツキーとの権力争いを制し、トロツキーを1929年に国外追放し、最高指導者としての地位を確立。
当時ソ連を構成していた国々の紋章
最高指導者となったスターリンは、計画経済を導入して、工業化や農業集団化を進めた。
計画経済は一定の成果を生んだが、反対するものを強制収容所へ送ったり(100万人以上)、これを免れた数百万人もシベリアなどの僻地に追放処分。(シベリアって聞くだけで、寒くてムリ。)
さらに、農業政策の失敗によって1930年代の大飢饉を引き起こして餓死者を多く出したりもしたらしい。
1939年に第二次世界大戦がはじまると、ポーランドやフィンランドに侵攻。
1941年に独ソ戦争がはじまると、大きな被害を出しながらも1945年にソビエトが勝利!!!!
ソ連側の死者数は民間人含めると3000万人(スターリンさん、やりすぎよ。)
人類史上最大規模の死者数ともされている。
第二次大戦後は、アメリカと冷戦状態となり、中国共産党や朝鮮労働党との結びつきを強めた。
1953年3月5日、脳卒中が原因となり74歳で亡くなった。
スターリンの健康状態は、第二次世界大戦の終わり頃から悪化。
酒好き&慢性的な喫煙によるアテローム性動脈硬化により1945年5月の戦勝パレードの時期に軽い脳卒中が起こり、1945年10月には重度の心臓発作に見舞われていた。
亡くなる3日前、少数の側近と夜間の宴会を楽しんで、翌日の午前4時頃、スターリンは自室に戻った。
「呼び出されるまで、邪魔をしてはならない」
と言われていたが、その日は一日中呼び出しがなかった。
あまりに起きてこないし、でも、眠りを妨げて激昂されるのも怖いので、皆で放置。
午後11時頃、さすがに寝すぎだよと意を決して家政婦が部屋に入ると、そこにはパジャマ姿のスターリンが床に!!!!
意識不明で失禁もしていた。
いつも怒ってばかりいるから失禁したまま何時間も放置されちゃうんだよー。
街の名医は殺しまくっちゃったので、しょぼい医者しかおらず(自業自得)、それでも医師たちも自分の命がかかっているので、色々試した。
上がった血圧を下げるために2日間で8匹のヒルを首と顔に当ててみたりもしたらしい。(血圧下がるのか?)
努力の結果も虚しく、そのままお亡くなりに。
防腐処理を自ら望んだスターリンの遺体は、埋葬を望んだレーニン廟でレーニンの遺体と並んで保存された。
1961年10月、廟の外に運び出され、燃やされた後、レーニン廟の裏に改めて埋葬された。
そんなスターリンのデスマスクも展示されてた。
ヤルタ会談の写真(左からチャーチル、ローズベルト、スターリン)
何となく見覚えがる写真だったので、撮ってみた。
きっと昔世界史の教科書で見たのかな?
覚えてないけど。
これだけ書いたけど、行った時はほぼ何にも知識がない状態。
ちゃんと予習して行けば良かった。。。
予習していれば、もっと良く資料とか見たかもしれないのに。
まぁ、二度と行く事はないけどね。
博物館の向かいには、1883年までスターリンが住んでいた生家。
ゴリ近郊の村から移設したらしい。
思ったより小さいね。
以前は中を見れたらしいが、この日のガイドはスルー。
今は見れないのか?
時間の関係で割愛したのか?
ちょっと分からない。
旦那ちゃんはツアーを終えて、「やっぱりスターリンは好きになれないなぁ」と言っていたけど、私は秒で飽きてしまったので、そんな感想すら持たなかった。(下調べ大事ね。事前知識ゼロで行くもんじゃないね。)
ここの展示物はスターリン最高って感じのラインナップになっているので、展示物にやや偏りあり。(大粛清や赤軍侵攻に関する展示はないので。)
スターリンでお腹いっぱいになったので、次の場所に移動。
ゴリ観光においてスターリン博物館と並ぶもう一つのハイライトがこちら。
ウプリスツィヘ洞窟住居跡
15ラリ (¥820)
鉄器時代の岩で出来た街の遺跡。
ウプリスツィへ洞窟住居跡に初めて居住したのは、紀元前2000年頃。
現在ウプリスツィヘに残る最も古い建造物は約2000年前の物。
当時は精霊信仰が定着しており、儀式や祭祀で使用されたと考える洞窟がいくつも残っているらしい。
4世紀にキリスト教が入って来るまで、ジョージアの中心都市だった。
13世紀、ユーラシア大陸で強大な軍事力を誇ったモンゴル帝国により滅びてしまったらしい。
何でも壊すよ、モンゴル帝国。
岩を登る。
岩の頂上には月面ですか?って感じの洞窟群。
だいぶ頑張って岩を掘ったなぁ。
王子の教会とマクヴリアニの洞窟
岩の中は少しだけひんやり。
魚の岩らしい。
ワインセラーとして使われていた洞窟。
高台から臨むクラ川。
行きは必死に岩を登ったけど、帰りはトンネルの中の階段を使ってあっさり降りられた。
最初からトンネル使えば良いのに。。。
ワインの甕(クヴェヴリ)が落ちてた。
展示物なのか?
軽く岩登りをし終えて、ようやく遅めのランチ。
15:30
Chateau Uplistsikhe (შატო უფლისციხე)
ウプリスツィへに行く前に立ち寄り、食べるものを先にオーダーしていたので、席に着くとすぐに料理が運ばれて来た。
Home made compote
10ラリ(¥540)
お酒って気分ではなかったので、苺のノンアルドリンクにした。
オジャフリ
25ラリ(¥1,400)
牛のオジャフリって書いてあったけど、豚肉だった。
ジャンクな感じが良き。
オストゥリ
20ラリ(¥1,100)
牛肉とトマトのシチュー
結構、好きな味だった。
食後はムツヘタへ。
2200年前から1600年前までジョージアの首都として繁栄していた街。
ユネスコの世界文化遺産に登録されている街。
17:30
スヴェティツホヴェリ大聖堂
11 世紀に再建された、東方正教会の象徴的な大聖堂。
4 世紀の洗礼盤がある。
ミリアン3世の命によってムツヘタで最初に建設されたのが、小さな木造の教会と木製の十字架だった。
当時の教会は現存していないが、その教会跡地に建つのが現在のスヴェティツホヴェリ大聖堂。
壁に一部残っているフレスコ画。
ジョージアはアルメニアに次ぎ“世界で2番目のキリスト教国”
ローマ帝国よりも早かった。
ムツヘタ旧市街
土産物屋が立ち並んでいる。
チュルチヘラも色んな種類が売られている。
遠くの山の上には朝イチに行ったジワリ修道院が見える。
道を外れると何もない。
これにて本日のツアーは終わり。
帰りはミニバスの中で爆睡。
気が付いたらトビリシの街に戻って来てた。
21:00
遅い時間だけど、夕食を食べに行く。
トビリシのお花屋さんはブーケ専門なのか?って言うくらい、店先にブーケがある。
どれもモリモリで可愛い。
Klike's Khinkali
Barのような佇まい。
階段を降りると壁にヒンカリの食べ方が描かれていた。
二日連チャンで1日ツアーに参加していたので、疲れました。
まずはビールで乾杯。
こちらはヒンカリ専門店。
右が定番の肉のヒンカリ
左がマッシュルームのヒンカリ
生地の集まったところを持ってひっくり返して食べるのだが、熱くて持てない。。。
生地厚めの小籠包。
スープはたくさん入ってる。
マッシュルームのヒンカリが美味しかった。
Min5個からオーダー可能。
1.9ラリ (¥100)/個
国会議事堂は時間が昨日よりも遅いせいか今日は静か。
22:00
Pictograma
これまたBarのようなおしゃれな入り口。
日本にいたら絶対に飲食しないであろう時間だが、ヒンカリをハシゴしにやって来た。
もう謎のやけ食い。
旦那ちゃんはビールだが、私はもうお酒はいらないのでレモネードを。
旦那ちゃんの顔に疲れが!?
いや、まだ元気そうです。
ここのお店は1個からオーダーが可能らしく、さすがに時間も遅いので、1人1つずつ。
定番の肉のヒンカリ
ポテトとチーズのヒンカリ
TRANSITにも取り上げられたお店
地元でも人気の店らしく、遅い時間にも関わらずお客さんがいて、皆さんかなりの数のヒンカリを食べていた。
店によって形や大きさが全然違うから面白い。
でも、ヒンカリより小籠包の方が好き。
お腹いっぱいになったので、宿まで歩いて帰ることに。
シャワー浴びて気絶するように寝た。
あ〜、全くヒンカリ消化していない状態で寝てしもうた。。。































































